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私共和国《訳読》― 第7回


“ボケ”ずに生きる

どうすれば脳の健康を保ち、認知症を予防できるか


第7章
使うか失うか ― Part 1 : 科学


  「使うか失うか」 の原則を、年とったネズミに適用したら、ネズミの生活はどう変わるのでしょうか。面白いことに、行動科学者たちは、ネズミ類への環境条件向上による影響を、40年以上にわたって実験してきており、豊富なデータを蓄積しています。環境条件向上とは、ネズミを、たくさんのおもちゃや迷路、トンネル、そして回転輪を備えた場所に入れ、相互影響を見るために同居の仲間も加えて実験したものです。こうして環境条件の良くなったネズミは、そうでないネズミに比べ、間違いなく、より良い生活の質をもったわけです。
 こうした研究から得られたもっとも力説されるべき結果は、環境条件向上が、私たちが試してきたほとんどどの試験でも、ネズミの能力の向上を示したことです。たとえば、記憶について見ると、条件向上後、数ヶ月すると、記憶能力は30から40パーセント向上しました。同じような結果は、機敏さ、問題解決、そして、ストレス反応といった試験でも認められました。
 それでは、どのような生物学的な変化が、こうした機能的な効果を支えているのでしょうか。私には、精神活動と認知症発症の減少との関係が、ひょっとするとあり得るのかも知れないと感じて以来、この問いがことさらの関心の的となってきました。 「どうしてそうなるのか。考えるという簡単な行為が、どうして認知症のような生物学的に顕著な異変に影響をもたらすのか」、と私は長い間、疑問に思ってきました。
 こうした疑問に関連する分野を調査した結果、環境条件向上がもたらす結果は単一ではなく、脳の中に、いくつかの特異な生物学的な変化をもたらすのではないか、との結論へ導きました(29)。そしてそれらは、時間的、規模的という両次元にわたりました。たとえば、個々の脳細胞が排出する蛋白質の種類や性質は、環境条件向上後の数時間で変わりました。他方、数週間の 「認知訓練」 は、脳全体にわたる新陳代謝の活性化の形で現われました。
 本章では、何が 「使うか失うか」 現象を支えているのかについて論じてゆきます。そして次章では、認知症を避ける可能性を最大化する、いくつかの実用的活動法を提示します。


神経革命 : 認知症治療に神経学と神経幹細胞はどんな希望を提供しうるか

 過去100年以上にわたり、私たちは学校や大学で、大人になると脳細胞は増えないと教えられてきましたが、これは正しいのでしょうか。それは誤りです。神経科学の一大革命は、新しい神経の創生――神経発生と呼ばれる過程――が、実に、脳生物学の通常の分野となってきたことです。たとえ高齢になっても、私たちは誰でも、毎日およそ5千の新しい脳細胞を作っています。すべての入手可能な実証は、神経発生は一生続く過程であることを、まぎれのない事実と指摘しています。
 しかし、神経発生は、脳の全体に等しく起こるわけではありません。脳の二つの部分がこの過程に特定されているようです。その第一は、副脳室帯――脳室を取り巻く細長い組織――と呼ばれる部分で、脳の中心の液体で満たされた空洞です。注目すべきことに、この部分での神経発生の結果で産生された新しい脳細胞は、よく使われる経路をへて脳の半分の長さを移動し、脳の前部にある嗅球(嗅覚の中枢)で成熟します。この現象は、自然界でもよく観察されるもので、イセエビ、鳥、そして人間までもの多様な動物で生じています。この経路を通した神経発生のレベルと私たちの臭いの能力との関係が明瞭ではないため、なぜ、こうしたことが起こらなければならないのかは謎となっています。
 神経発生の第二の主要部は、脳の基盤部近くに位置する折れ曲がったソーセージ〔タツノオトシゴ〕型の器官である、海馬です。海馬はおそらく神経科学においてもっともよく研究されてきた脳の部位で、何十年間も、記憶に関わる――ことに、周囲の環境に関連しておこる新しい記憶(視空間的記憶)――と考えられてきました。たとえば、アルツハイマー病理学のいくらかは海馬を出発点とし、同時に、その患者は視空間的記憶に障害をもつことから発症しているのは、偶然の一致ではありません。
 副脳室帯と違って、海馬の神経発生は、脳のその部位に始まり、そこに終わります。新しい神経は、形成され、成熟し、そして局地的に近接した神経との連結を作ります。これは毎日おこり、明らかに、私たちが死ぬまでそれは終わりません。そうであるがゆえ、人は、なぜ私たちの海馬が頭全体を占めるまで増大しないのですか、と問うことになるかも知れません。そうならないのは、おそらく、二つの理由によります。第一に、海馬の内の脳細胞は感覚神経の束で、たとえば、ストレスを受け、ストレスホルモンであるコルチソルを産生した時に何千もの神経が死んでしまいます。私たちが強いストレスにさらされた時、私たちは余り明晰にものを考えられなくなり、簡単なことも忘れやすくなります。そうした際の血液中の高レベルのコルチソルは、あたかも、脳への弱い毒として働きます。そこで、海馬の中の細胞の総数をほぼ一定に保つために、私たちは、 「戦死した」 それらを補充するため、新たな脳細胞を作る必要があるのです。第二の理由は、毎日産生される新たな細胞は、短い寿命しかもっておらず、そのわずかな割合のみが成熟し、既成の回路に統合されます。
 それは一種の現状を維持するためのようで、私たちは海馬の中で、実際に必要とするより多くの脳細胞を産生し、その多くは死んでしまうのですが、有用なものは生き残ってその目的を果たします。ただその実際の目的は定かではありません。神経発生は適正な記憶能力のために必要とされている、あるいは、私たちの情緒の維持のため、あるいは、あまり重要でない偶然の過程であるとかといった諸説が、それを説明しています。
 神経発生についてのアルツハイマー病による影響は、きわめて興味深いものがあります。私たちは、アルツハイマー病理学が海馬に発祥し、古典的 「アミロイド」 説がこの脳内部位での高い神経消失を発見し、それがそもそもの原因であると説明していたことを思い起こします(第2章参照)。ですから、それが神経発生を減少させるとも予想されます。だが実際に研究者たちが発見したことは、海馬における神経発生の増加です。したがって、もっともありうる解釈は、一般にアルツハイマー病は確かに脳細胞の消失をもたらす一方、神経発生の機構には否定的には働かないようであり、したがって、私たちの身体は新しい脳細胞を作り出すことで、こうした神経消失を穴埋めしようとしているようだ、ということです。不幸なことにアルツハイマー病では、そうした穴埋めが、細胞消失の度合いが大きすぎるために、最終的に成功していないわけです。
 神経発生の謎の最後は、こうした新しい脳細胞の厳密な源です。一般的に、 「新脳細胞はない」 との説は、大きく的外れというわけではありません。私たちの脳細胞の大半は、人生の早い時期が終えた後、分裂も再生もできません。ですから、重い脳負傷や脳卒中や他の脳損傷の後、その部分での新しい脳の再生は、大規模には不可能なのです。その一方、海馬といった 「特権的」 部分では、成人となった後でも、確かに、多くの細胞が分裂したり再生したりしているのです。というのは、こうした細胞は、ほどんど無限に自己再生が可能で、神経の再生ばかりでなく、他の脳細胞も再生しており、それは神経幹細胞と呼ばれています。
 この魅惑的な神経幹細胞の分野をフルに議論するには、一冊の本が必要なほどですが、それが、神経科学の最も将来的な一分野であることはに疑いの余地はありません。そしてその重要性は臨床的可能性で発見されています。つまり、もし、私たちが神経幹細胞の力を利用、すなわち、神経発生を人工的に利用できるとすると、私たちは主要な神経学的病気――脊髄損傷、パーキンソン病、脳卒中、そしてもちろん認知症――を治療したり、回復さえ可能かもしれません。また別の面では、その生物学的魅力です。すなわち、神経幹細胞が脳組織からばかりでなく、胎生組織、骨髄、そして成人の皮膚からすら形成されると期待されていることです。幹細胞は従って、実に 「可塑的」 で、定義や制御や概念化にもなじめないものなのです。世界の研究者は、私も含め、現在、認知症の治療のため、神経幹細胞を基に、技術的、療法的戦略の開発にしのぎを削っています(30)。しかし、私たちはまだその端緒についたばかりです。ニュー・サウス・ウェールズ大学医学部のクルディプ・シドゥー(Kuldip Sidho) 準教授と一人のオーストラリアの指導的幹細胞科学者は、この方向を以下のように集約しています。


 
精神活動は成人の脳を成長させる
 神経発生の分野におけるもっとも信頼の置ける発見のひとつは、動物を向上した環境条件に置くことで、その新たな脳細胞の数が増加することです。ドイツ、ドレスデンの発生学的療法センターのゲアード・ケンパーマン(Gerd Kempermann)教授は、こうした結果を最初に発見し、ことにその発見を、高齢のネズミ類に発展させました(32)。そこで彼が発見したことは、高齢のネズミの脳での新しい神経の生存は、いっそう刺激的な環境に置かれた場合、3倍以上――標準の環境条件の8パーセントが、向上した環境条件では26パーセント――に増加したことでした。さらには、この結果は、海馬でおこっていることです。したがって、高齢になってからの生活を精神的に活発にさせることで、神経発生に有益な効果を与え、そうでない場合と比較して、脳細胞により大きな 「緩和力」 を築き上げることができます。
 精神活動を通じて神経の緩和力を増すという考えにひそむ問題の一つは、結局、その数に帰着します。つまり、もし私たちが一日に5千の新神経を発生させ、それが一定期間のうちで10パーセント生き残るとすると、その結果、5百の神経の追加となります。そこで、精神活動がこれを5倍に高めると仮定すると、そこにはなかった2千5百の神経が追加されることです。問題は、初期のアルツハイマー病は、他の部分とは別に、海馬の中だけで数千万の神経の消失を起こすことです。2千5百の新神経が、アルツハイマー病によって起こる大量の死滅に対し、どんな違いをもたらしうるというのでしょうか。
 もちろん、こうした数値はきわめて単純化したものであるのですが、それは、まだ未解決の重要な問題を提示しています。即ち、私がいっそう引き付けられる別の説明では、精神活動は、神経間の結びつきである、シナプスに強く作用するというものです。さまざまな未知の方法によって、あらゆる意識活動――シラズワインの芳香な味わいから、もっとも不安に富む内部対話まで――は、生物学的情報が緊密かつ直接的に私たちの脳細胞間を交信することによっています。多くの場合、脳細胞の消失は、脳細胞間の通信経路の消失に比べ、その半分ほどにも重要ではありません。一例をあげれば、一つの神経が他の一つの神経と交信できず、それがまた他の神経ともそうであり、それが次々と生じた場合、それはどういう意味をもつのでしょうか。また別の例では、余剰な連結をもった一つの神経のネットワークを想像すると、たとえその一つが死滅しても、それを補完する経路が働き、そのネットワーク自体は安定して機能できます。交信や情報伝達そしてネットワークという面で脳について話し始める時はいつでも、私たちはそれがゆえに、シナプスの保存とその完全な機能を前提としているのです。
 想像できるように、研究者はことに、シナプスの数への環境条件向上の影響とその効果には驚かされます。12ヶ月間の環境条件の向上は、シナプスの数を平均して200ないし300パーセント上昇させます。一つの神経が1万以上のシナプスをもっているとして、精神活動は、脳細胞間のシナプス連結に驚異的な上昇を与える可能性があるのです。
 こうした考察を前提とすれば、科学者が認知症患者に確認するあらゆる細胞の数値で、精神活動ともっとも強い関係にあるのはシナプス数である、ということも驚きではありません。二つのグループが発見した結果の報告によると、認知症患者中の精神機能の変異のうち、半分以上は、シナプス数によるものでした。そこで、図-4のように、座標軸上で、人の精神能力を横軸に、シナプス数を縦軸にとると、プロットされた点は、きれいな右上がりの対角線状をなします。つまり、シナプスが増えれば増えるほど、経験するだろう認知上の障害は減り、またその逆でもある、ということです。


図-4  シナプス密度と精神活動の関係



 上のグラフはシナプス密度が縦軸に (二つの異なった調査の数値が濃い点 [左目盛り] と薄い点 [右目盛り] で表示)、そして、Mini-Mental State Examination (MMSE) で計測された認知症患者の精神能力が横軸にプロットされています。高齢健常者のMMSEは24−30の値です。上のグラフでは、最高MMSEは20です(全員が認知症患者)。全体の相関係数 r=0.71 で、こうした二つの変数――認知症患者の精神能力とシナプス密度――間の高い関係を示しています。(注;この調査は一年以上を費やして実施された)

 出所: S. Scheff and D. A. Price. Synaptic Pathology in Alzheimer's disease: a review of ultrastructural studies. Neurobiology of Aging (2003) 24:1029-46; および R. Terry, et al. Physical basis of cognitive alterrations in Alzheimer's disease: synopse loss is the major correlate of cognitive impairment. Annals of Neurology (1991) 30:572-80.

 そこで私は、精神活動のもっとも重要な効果は、脳の様々な部位でのシナプス数を増加させること、と確信しています。精神を活動的に維持することで、私たちは、シナプスの 「貯蓄」 や緩和力を築き上げることができ、アルツハイマー病のような病気にかかった時、そうでない人の場合よりもっと長く認知能力を維持することができるのです。


 
成長する脳と縮む脳
 私たちは、環境条件の向上が、神経発生やシナプス数という根元的な神経学的過程に、まさしく驚くような効果を与えるかについて見てきました。そればかりでなく、環境条件の向上はまた、脳の容積や大きさをも増大させるのです。1970年代に行われた調査研究は、三ヶ月間のより刺激的な環境が、動物の脳の重さや寸法を7パーセント増大させることに注目しました。さらに驚くべきことは、同様な結果が人間においても見られたことです。あるグループは、5週間のボール・ジャグリング〔お手玉〕の訓練が、その曲芸を上達させたばかりでなく、その脳の諸部位をおよそ5パーセント肥大させました。その訓練が終了して数週間後、そうした部位はもとに戻りました。同様な効果は、エアロビック・エクササイスの数週間の後にも見られました。
 すべての行動が関係しているらしい、脳の部位、海馬についてはどうなのでしょう。私たちは、60歳を過ぎると、海馬が通常、毎年およそ2−4パーセントづつ収縮することをつかんでいます。パーミンダー・シャクデフ (Perminder Sachdev) 教授と、NSW大のヘンリー・ブロダティー (Henry Brodaty) 教授が率いたシドニー脳卒中研究は、その一部で、海馬の収縮率と人々の精神活動レベルとの間の関係を直接に調査しました。驚くことに、その関連は極めて強力なものでした。個々の脳スキャンの正確な測定によると、三年間で、高いレベルの精神活動をもった人は3.6パーセント海馬の容積を失ったのに対し、低いレベルの精神活動の人は同期間に、その二倍以上の8.3パーセントを失いました(図-5)。


図-5 海馬の収縮と精神活動レベル




 上のMRI (磁気共鳴映像法) 脳スキャンは、脳の一断面を直接に見たものです。上段の断面は、高度なレベルで生涯にわたって複雑な精神活動 (第8章末で述べたLEQにより測定) をしてきた高齢者のものです。下段の断面は、そのはるかに低いレベルの高齢者のものです。裸眼においても、海馬 (右肩の拡大写真に白線で囲って示されている部分) の容積の違いは明らかです〔上が2,966mm3に対し、下が2,232mm3〕。.

 出所: M. Valenzuela et al. "Lifespan mental activity predicts rate of hippocampal strophy", PLoS One (2008) 3(7): e2598.


 海馬組織の縮小はアルツハイマー病理学においては、きわめて強い指標です。それが顕著な場合、その人が将来、認知症を発症するかどうかを予想する助けとなります。すなわち、こうした結果が意味するものは明白です。高いレベルの精神活動は、より少ない海馬の縮小に関連し、そして、より少ない海馬の縮小は、認知症を発症する可能性を小さくします。


 
精神活動は認知症の危険を軽減するか
 私たちは環境条件の向上がネズミ類の脳に影響する結果や、精神活動が私たちの脳にもたらす異なったタイプの効果を見てきましたが、ならばそれが認知症の危険を減らすのか、といった明快な質問についてはどう答えられるのでしょうか。
 2006年、私の同僚とその師であるパーミンダー・シャクデフ教授とが共同して、この質問に答えようとする野心的なプロジェクトに取り掛かりました。それまでに、様々な角度から――認知症の発症と、個人の教育、職業的複雑性そして精神活動の複雑さの度合いの相関関係――調査した、数百の研究がありました。それらの研究報告を網羅した後、私たちは、最上の科学的標準を満たす22研究群――総体で、2万9千人を平均7年間にわたって追跡調査――に焦点を絞り込みました。サンプル数が多ければ多いほどその結果はより正確であるとの科学的一般原則に基づき、この情報をメタ分析(公的な統計分析法)で統合したものが、重要な進歩性を獲得するはずでした。そしてその結果が最初に私のコンピュータに現れてきた時、私は思わず息をのみました。すなわち、高レベルの精神活動を生涯にわたって行ってきた人は、認知症を発症する確率が46パーセント低い、というのです。つまり基本原則として、高い精神活動のグループでの認知症の発生率は、それの低いグループの、ほぼ半分、というわけです。
 さらに興味深いことは、この結果は、高齢になっても継続しそうだ、ということです。すなわち、誰かの教育や職業的複雑性のレベルを統計的に変動しても、退職後の高い精神活動は、認知症の危険を40−50パーセント低減する関係にあるという、同じ結果が維持されるのです。これは、この分野におけるもっとも前進的で力を与える結論のひとつです。なぜなら、あなたが決心を新たにすることに遅すぎることはない、ということを表しているからです。
 したがって、もしあなたが高齢期にあって、自分が高等教育や複雑な精神活動に富んだ職業生活を送ってきたわけではないとしても、それでもまだ希望はあるわけです。すべての調査結果は、たとえいかなる年齢にあっても、精神的に複雑で、挑戦的で、それを楽しむ追求をおこなうことは、誰にとっても、認知症になる危険を低めることを示唆しているのです。


 ネズミの場合と人間の場合
 上に述べた結果はすべて大変良好なものですが、精神活動は、アルツハイマー病をもたらす生物学的経路についても、それを半減させたり、逆行させたりできるのでしょうか。この数年に行われたひとつの有名な研究は、それを示唆しています。シカゴ大学のサングラム・シソデア(Sangram Sisodia)とその同僚は、ベータアミロイド垢――第2章で述べたように、アルツハイマー病の主な病理学的指標――を過剰にもつよう遺伝操作されたネズミを用い、その環境条件向上の影響を調査しました。それによると、6ヶ月間の環境条件向上は、ネズミのベータアミロイドの形成度合いを50パーセント引き下げるという発見をえました。同様な発見は、他の研究でも得られているのですが、ある一件の研究が同様な発見を繰り返すことができなかったため、まだ、論争の余地はあります。
 ここにおいて、私たちの研究が発見した認知症の危険を50パーセント引き下げることと、環境条件向上でアルツハイマー病理学指標を50パーセント引き下げたことの両結果を、結び付けたい誘惑にかられます。ですが、この橋架け作業は容易ではありません。結局、ネズミの環境条件向上の結果がどうであれ(たとえ自然のネズミであれ、 遺伝操作された「アルツハイマー病ネズミ」 であれ)、明らかに、ネズミの場合と人間の場合は同じではなく、そうした誘惑はそれでしかありません。当たり前ながら、遺伝操作したアルツハイマー病ネズミの結果をもとにして、人間への試験の結果を予想するのは無理なことです。ここに、ある格言が思い起こされます。曰く、 「もし一丁のハンマーしか持っていない時、世界は一本の釘にしか見えない」。


 
精神活動の臨床的こころみ
 精神活動が認知症の危険を減らす〔との説を立証し〕うるためには、したがって、私たちは人間の臨床試験の結果に目を向けなければなりません。この分野はしかし、また、端緒についたばかりの分野です。2000年に至るまで、科学文献にそうした研究は一件も見当たりませんでしたが、現在では、およそ半ダースほどの研究が取り組まれています(33)。そうした研究の関心は、その一部が、企業による、認知的あるいは脳への効果を確約する 「マインドゲーム」 を商品化し始めていることに拠ります(本章末の焦点を参照)。また別の理由は、今日、医師の間に、ただ単に障害から私たちを救い出す魅惑の新薬に頼るのではなく、非薬学的予防法がいっそう重要であるとの一般的な認識が広まっていることです。
 現在までに報告されている臨床的試験のどれも、精神活動が認知症の危険を減らすかどうかという疑問に答えるようには想定されていません。というよりむしろ、そうした研究は、認知劣化の程度にいろいろなタイプの精神的訓練が及ぼす効果について見ていました。朗報は、そのいずれもが肯定的な傾向をしめしたことで、あれやこれやの精神的訓練がその特定の期間の認知劣化の程度を遅らせていました。そうした試みが、ひとつのメタ分析に統合された時、その全体的効果は、強力で統計的重要性の両方をもつものとなりました。悪いニュースは、往々にして、そうした効果はきわめて狭く、例えば、問題Xを解決する訓練はそうしたタイプの問題解決能力を高めはしても、問題Yや問題Zといった他の認知能力へは一般化できない傾向がありました。
 この種のもっとも規模の大きな臨床研究は、アメリカを基盤としたACTIVE (Advanced cognitive training for independent and vital elderly) 研究で(34)、一般化した効果を示すことによって、この分野に新しい動向をもたらしました。その研究者たちは、まず、2,832名の対象者を4グループ――いずれも10週間の、記憶訓練、推理訓練、精神的速度訓練、そして何もしない対照群――に分けました。5年後、対象者は再試験され、推理訓練が、買い物、食事の用意、毎日の金銭管理などといった日々の仕事をなす能力において持続的で科学的に力強い効果を見せました。言い換えれば、わずか10週間の推理訓練が、5年後に、基本的生活能力と一般化できる――この能力は、それができなくなることをもって、認知症の診断の中心的基準となっている(第1章参照)――、有用で持続する効果を残していたわけです。
 したがって、私たちは、精神的活動が認知症の予防に役立つことを、理由ある疑問を越えて樹立しつつある地点に、かろうじてながら到達しようとしています。ただ、ACTIVE研究が示した主要な問題点は、そのボランティアたちが、一般的にみて、その始めから例外的に高い能力をもった人たちであったことです。したがって、認知上や基本的生活能力の変化度合いは、全体に比べて、顕著に低かったわけです。したがって、人はこう問うかもしれません。ことの最初から基本的に100パーセント充分な精神的能力の人に、そうした訓練を最初に与えることの意味は何なのですか。
 こうした論点は、シドニー大学のマリア・フィアタローネ・シン (Maria Fiatarone Singh) 教授の指導と、私や全オーストラリアの研究者と共同で現在進行中の臨床試験――SMART (Study of Mental Activity and Regular Training) ――で追及されています。このSMART試験の目的は三つあります。第一は、どういうタイプの活動――精神的活動、身体的活動、心身両方の活動――が認知症の予防に最適であるのかを決定することです。第二は、認知テストでふるい分けた結果を事実上の境界として、高い認知症の危険をもつ人たちのみをこの試験の対象者としていることです。第三は、認知症の危険に関するだけでなく、潜んでいる脳的問題についても、私たち自身の訓練の効果を見ようとしているものです。SMART試験の最終結果は、2012年には発表され始める予定です。どうぞご期待を。


 結論
 私たちは、精神活動が認知症の危険を下げることにことさらな役割を演ずることが確固と立証されるものであり、いっそうそれが固まりつつあることを見てきました。こうした立証は、ネズミの脳についての無数の肯定的結果から、記録に残された人間の脳の健康への効用へとわたっています。さらに、精神的に活発な生き方は、数十もの大規模な調査の全般にわたって、認知症の危険を減らすことと関連しています。そして、こうした効果は、人間を対象とした臨床試験で繰り返して確かめられることが開始されています。したがって、その意味することは、一貫しており、かつ揺るぎがありません。

 教訓 その6 精神的に活発であることを持続することは、認知症の危険を少なくする強い可能性がある。

 次の章では、この教訓を特定な生活スタイルの推薦項目へと適用するには何がベストなのかについて述べます。 「使うか失うか」 の原則をものにする、実際の活発な生活の事例が、脳科学の観点から顕微鏡の下での観測とともに、提供されます。


焦点―― 「脳ジム」 ビデオゲームは役立つか


 この質問に適切に答えるためには、まず私たちは、役立つ、の意味について問うことから始めなければなりません。つまり、私たちが成功を計ったり、商品化した精神活動ゲームが増えている尺度に、何を用いるかがあります。
 まず、歴史的経緯が重要なポイントです。心理学者はもう20年以上にわたり、何種類もの 「脳の訓練」 の高齢者における効果について研究してきました(35)。そうした訓練は、通常、 「紙と鉛筆」 か、熟練した教師に率いられた教室で行われる設定となっています。その結果は、どんなタイプの記憶訓練でも、その訓練内容において、短期的な能力向上の助けとなるのはほぼ間違いないでしょう。
 そこで、最初の重要な点は、他のどれより確かに優れている 「魔法の」 記憶訓練に誰も出会ったことがないことです。どんな方式であれ、記憶の訓練は重要です。したがって、比較した臨床試験による報告がされない限り、他のものではなく、特定のひとつの商品を選ぶ理由はないように思われます。
 第二に、この章で述べてきたように、効果の転移 〔以前の学習効果がその後の学習に影響を与えること〕 の問題は決定的です。多くの高齢者がこうした訓練を望む理由は、彼らが自分の人生を、認知症にならずに送れるようにするためであって、クイズにすばやく答えることではありません。
 そうした商品化した製品は、 「どれだけの点数をあげたか」 というような、成果を競い合う傾向があります。また、そうした成果は、その人が数ヶ月のうちで成し遂げてきたことと同じ働きにおいての向上です。あなたが繰り返し練習している課題で、あなたが前進するのは自明のことです。別の形で報じられているのが 「脳の時代」 と呼ばれている製品で、おそらく、売るための道具としては優れているようですが、個人のレベルでは、科学的に無意味なものです。 
 また、そうした商品は、独自の技術を消費者に適用することによって、人の一般的な認知能力や日常能力が、無作為対照群に比べて向上したり長期的に維持できたりすることを、実地に示すこと狙っています。しかし、この章で述べたように、〔訓練による〕効果の転移の立証は臨床試験で明らかにされ、伝統的な訓練手法に使われてきました。私は、原理的には、同様な効果がコンピュータ化された訓練法からも可能だとは予想します。しかし、そうした試験で立証される必要があります。
 次に、保護的効果の耐久性もまた重要です。製品のなかには、未出版の 「評価研究」 の中で、そのマインドゲームの一ヶ月の訓練で、それと同じ働きが9−30パーセント向上すると言っているものもあります。だが、利用者がそうした訓練を止めた後、こうした向上が持続するかどうかの報告はありません。多分、こうしたゲームを永遠に続けることが期待されているのでしょう。人々は概して、生活スタイルの継続した変化を、たとえそれが命の問題であったとしても、余り受け入れようとはしません。例をあげれば、健康な食事の維持です。その恩恵はだれもが解っていることですが、糖尿病や肥満の比率は上昇しています。
 他方、この章で述べたACTIVE臨床試験は、10週間の認知訓練――5年間にわたり提唱されてきた――の後、日常生活能力において、中程度の一般的な向上を発見しました。したがって、コンピュータ化した精神活動プログラムについてのこの種の長期的臨床試験が、単独に必要とされています。それは、すでに説明した理由ばかりでなく、こうした訓練プログラムが伝統的競合製品に対するひとつの主要な利点をもっているからです。この利点は、個人の向上にあわせて、課題の難易度レベルをその人に合わせたり、時間につれて難易度レベルを引き続いて上げて行けることです。
 最後に考えるべき問題は、他の条件は変わらないとして、高齢者が記憶訓練を自宅で配偶者とともに行った場合、それをひとりで行った場合より良いという、ある研究グループの注目される発見です。次の章でも見るように、同僚や友人やチーム仲間を持って訓練を行うことは有益です。言い換えれば、社会的次元は認識次元と同じように重要です。もし、そうした社会的、身体的行動を無視し、任天堂やコンピュータの脳ジム訓練を一人で行う場合、それだけの 「機会コスト」 を伴うというわけです。
 コンピュータ化した精神活動訓練は、ゆえに、後の生活での認知の劣化や認知症を減らす幾らかの可能性があります。しかし、そうした予期は科学的に確認されるべき問題として残されており、効果の移転や効果の耐久性といった重要な問題も追及される必要があります。次章で論じるように、商品化された脳ジム製品を買う代わりに、もっと効果的で、安価で、そしてもっと楽しい、幾つかの代用できる方法があります。

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